1DCAEの部屋

1DCAEに関する様々な情報を紹介します。

1DCAEに関する公開情報

日刊工業新聞社 月刊誌『機械設計』にModelicaに関する記事を連載中

日刊工業新聞社の月刊誌”機械設計”でModelicaに関する連載を2019年11月号より開始しました。設計者の視点で、Modelicaを全く知らない人を対象に順次事例を交えながら、最終的にはModelicaを使って対象とする物理現象を自由自在にモデリングできることを目指しています。また対象となる物理現象(四力を中心に)についても分かり易く解説して行きます。

日本機械学会会誌2017年11月号で1DCAE特集

日本機械学会誌2017年11月号で”特集 考えるCAE:ものごとの本質を捉える1DCAE”と題した特集を組みました。

日刊工業新聞社『機械設計』2017年9月号

日刊工業新聞社の月刊誌“機械設計”の2017年9月号にて、特集「事例から学ぶ設計手法の効果的な選び方と使い方」を組みました。1DCAEを含めた広い意味での設計手法を可能な限り網羅しました。

日刊工業新聞社「よくわかるデライト設計入門」(2017年4月)

本書は、製品に顧客にとってうれしくなるような価値を作り込む設計・開発(デライト設計:使い手の琴線に触れる魅力品質を作る)の考え方と方法を分かりやすく解説した入門書です。デライトデザインとは何か、誰にとってのデライトかといった本質から、デライト設計の手順、マストデザイン・ベターデザインとの関係、必要なツールとその使い方について事例をまじえて紹介しています。ワクワクするような顧客価値は、決して思い付きにより付与されるのではなく、狙って製品に付与できるものであり、これがものづくりが本来目指すところであること説いています。

日本設計工学会 学会誌『設計工学』で1DCAE特集(2016年)

学会誌『設計工学』 Vol.51,No.3 2016で特集: 1DCAEが拓く新しいものづくり(Part1: 1DCAEの設計工学における考え方)、Vol.51,No.6 2016で特集: 1DCAEが拓く新しいものづくり(Part2: 1DCAEのための力学を使いこなす考え方)が掲載されました。

日刊工業新聞社「よくわかる設計手法活用入門」(2016年7月)

本書の内容は企業での35年余りの実務経験と、学会活動、特に、主査を務めている日本機械学会設計研究会の活動を通して、考えたものです。設計手法の分類等は設計研究会での活動の成果です。 

日本シミュレーション学会 学会誌「シミュレーション」で1DCAE連載講座(2014年)

1DCAEによるものづくり 第1部:1DCAE総論、1DCAEによるものづくり 第2部:原理原則に基づく1DCAE、1DCAEによるものづくり 第3部:3つの設計と1DCAE、1DCAEによるものづくり 第4部:シミュレーションと1DCAEと4回に渡り、1DCAEに関する解説記事を掲載した。抜き刷りご希望の方は大富宛連絡ください。

東芝レビューにおける1DCAE関連記事

東芝レビューでは2012年7月号で”機械システム設計のためのシミュレーション技術”という特集を組み、この中で”1DCAEによるものづくりの革新”と題した1DCAEに関する紹介を行っています。これに先立つ2007年9月号では”イノベーションを加速するフロントローディング設計”という特集を組み、”製品音のデザイン”と題してその後の1DCAEのデライト設計の先駆けとなる事例も紹介しています。さらに、2005年1月号では”デザイン フォー エックス(DfX)”と題して、上流設計の重要性に言及するとともに、その後の1DCAEに繋がる一連の手法を紹介しています。

ひとりごと

1DCAEの10年を振り返り、これからの10年を考える

1DCAEという考え方が世に出て10年(本原稿は2018年7月執筆)になります。この間、1DCAEの認知度もあがり、手法も普及、これを具現化するツールも出てきました。これを機会に、今までの10年を振り返るとともに、これからの10年、何を目指してどう具現化していくのか考えたいと思います。なお、ここでお話しするのは必ずしも1DCAEの世の中の一般的な動向ではなく、あくまで私の個人的な経験、見解、想いです。詳細はこちら

物事の本質を捉えるとは、過去の経験を通して

1DCAEとは『物事の本質を的確に捉え、見通しの良い形式でシンプルに表現する』と定義した。そこで“物事の本質を捉えるとは”について考えてみたい。筆者は企業での長年の業務の中でいわゆるトラブルシューティングに何度か遭遇した。多くのトラブルは原因が分かってしまえばそのメカニズムは非常にシンプルである。これに如何に早く気が付くかがポイントである。ここで二つの事例を紹介する。

一つ目はポンプの水中リングが破損した例である。水中リングはポンプの脈動で励起されるためにその周波数と共振しないように固有値は設定される。水中リングなので水の付加マスも考慮する必要がある。しかし、実際には共振してしまった。水がポンプの流れによって回転しているため静水の付加マスと異なってくるというのが原因であった。分かってしまえば、なるほどと理解できるのだが、設計段階でこれを予測するのは困難であると感じた。これは付加マスとはその物体が排除した流体のマスであると教科書の書いてあり、これを信じて疑わなかったからである。一歩、引いて付加マスの原理に立ち返れば気づいて然るべきであったかも知れない。後日、自動車関係の技術者と車のタイヤの振動音響の話をしていたら、タイヤの中の振動音響がタイヤの回転状態によって変化するということで現象的にはポンプの例と全く同じあることに驚いた。見た目は違ってもその本質は同じあるものが多いということである。また、いずれの場合もその現象が理解できると非常に簡単な式で表現できる。

二つ目の事例は配管に挿入された温度計測用の細管が破損した例である。流れ場に置かれた物体(円筒管)にはカルマン渦によって周期的変動力が発生することはよく知られている。従って、この場合もカルマン渦による変動周波数と細管の固有振動数が一致しないように設計されていた。しかし、実際には共振してしまった。この時の原因はこの場合のレイノルズ数が通常のカルマン渦ではなく、いわゆる双子渦が発生する領域であったことである。カルマン渦と双子渦ではその発生周波数は倍半分異なる。配管が大口径であったこと、流体が特殊なものであったことが予測を困難にしていたと推測される。教科書にもカルマン渦の例は多く出てくるが双子渦に関しての記載は少ない。渦と言えば、カルマン渦というのが脳裏に焼き付いている。ただ、双子渦に関してはかなり以前の論文で北海油田のパイプが潮流で振動する原因として双子渦が存在することは知っていた。両者は流速、配管形状、流体が全く異なるため、その相関に気が付かなかっただけで、実はレイノルズ数はほぼ同じであったということである。

さて、以上の二つの事例を見て読者はどのようにお考えであろうか。物事の本質は分からないと果てしなく複雑になるが、ちゃんと理解できるとシンプルに表現できるのである。レイノルズ数に代表される無次元数は方程式の次元を気にしないで解析できるように設定されたものであるが、結果としては形状などの見た目に捉われずに現象を本質的に理解することに寄与している。しかし、CAEの普及によって、無次元数の存在は影が薄くなっている。“物事の本質を捉える”には無次元数の例だけでなく他にも多くの手段(過去の遺産)があるはずで、これらに耳を傾ける場が必要と考える。一方、製品の複雑化により研究者、技術者の分業化が加速、“井の中の蛙”化している。また、分業化しているが故に結果的に金太郎飴化している。一歩引いてまわりを見る心のゆとりが“物事の本質を捉える”ための唯一の方策ではないだろうか。

(2017 JFPA Tea Time by KO)

我々は本当に賢くなったのか?

塩野七生氏の“ローマ人の物語”を読んでいる。古代ローマ時代の話である。古代ローマ時代は紀元前753年に始まり、紀元後476年まで続いた。古代ローマ時代の愁眉は実質的には初代皇帝ともいえるカエサル(紀元前100年生、紀元前44年没)から五賢帝(紀元後180年まで)の時代までである。この間のものづくりの視点からの重要なものに、道路、水道橋、建築物(例としてコロッセウム)がある。道路は“すべての道はローマに通じる”という言葉で有名である。幹線道路だけでも八万キロもあったという。しかもこの道路は排水も考慮され、何層構造にもなっていて最上部は石を敷き詰めてある。さらに、メンテナンスも常に行われており、古代ローマ時代が終焉を迎えるまで使用されていた。水道橋は現在もヨーロッパ各地に遺跡として残っているのでご覧になった方も多いのではないだろうか。私はイスタンブールでホテルから空港に移動するタクシから見たことがある。二千年後の現在でも残っているというだけでも凄いことであるが、あれだけの巨大な構造物を計算機もない時代に作ったということに驚嘆する。しかも、5年程度で作ったという。道路、上下水道というインフラが二千年前に既に存在したのである。一方、コロッセウムに代表される建築物は道路、上下水道とは位置付けが異なる。コロッセウムは皇帝が国を統治するためにローマ市民への娯楽サービスとして作ったものである。現在のコロッセウムは一部しか残っていないが、当時は長径188m、短径156m、高さ52mの強大な建築物である。また、天井には日除け用の天蓋があり、中央の舞台に設置された巨大なプールには本物の船を浮かべて戦闘シーンを再現したとのことである。このコロッセウムも4年で建築されている。

古代ローマ時代の全盛期と二千年がたった現在を比較すると何が変わったのだろうかと考えてしまう。古代ローマ時代の全盛期は上記のものづくりのみならならず、かなりの長期にわたって現在のヨーロッパのほぼ全域で種々の文化、宗教を持った民族が共存していたことを考えると政治的にも今以上に安定していたのではないだろうか。古代ローマはローマが中心であるが、哲学はギリシャから、数学はエジプトからと見事に融合が図られている。確かに、現在は古代ローマ時代に比べるとものも豊富だし、技術もはるかに進歩している。将来は車が空を飛んでいるかもしれない。でもよく考えるとIT技術の発達も我々が望んでこのようになったとも思えない。私もこうやってほぼ一日、パソコンに向かっているか、タブレット、スマホを操作している。どうも自分の意図とは無関係に見えない力に支配されるように感じる。技術の発展はひとの生活を肉体的も精神的も豊かにするためにあるはずである。連載している“1DCAEによるものづくり”の根底には、ものづくりは何のためのもので、今後どう進んでいったらいいのかを考える場としたいとの想いもある。世の中の自然の流れに従うという考えもあるが、やはり自分の想い、夢を描いてこの実現に向けて一歩一歩進んでいきたいと考えている。恐らく、技術的には可能であり、問題はこれをひとがどう感じるかだと思う。今回、古代ローマ時代の話を紹介したがまさにものづくりとひとづくりが一体となっていたように感じる。今更、古代ローマ時代に帰れとは言わないが学ぶべきことは多い。技術の進歩は長寿命をもたらしたが、物質的には飽和状態にある。我々工学屋も物質的な充足だけに貢献する時代は終わり、今後は精神的な充足も目指したものづくりも考えていく必要がある。それも作り手、使い手の両者にとって心豊かなものとして。

(2017 JFPA Tea Time by KO)

2050年の社会像を描くことの意義

日本機械学会で2050年の社会像を描いて、その上でこれから何をすべきかを考える活動を行っている。こういう中で多くの方から、批判的、悲観的意見をいただいている。その頃私は生きていないから意味がないとか、そんな先のことより今が大事というのが大方の意見である。これはこれで分からなくもないが、もう少し楽しいことを考えたらというのが私の考えである。2050年には世界人口は現状の1.4倍になると予測されているが、日本の人口は20%減少し、一億人を割り込む。あくまで予想なので精度は担保できないが方向としてはこのようになり、これを止めることはできない。また、2050年には日本の人口の4割は65歳以上になる。個人的なことになるが私は最近、前期高齢者(65歳以上)の仲間入りをした。若い頃はこの年まで働いている(自分で働いているという意識はないが)とは思っても見なかったが、気力、体力ともまだ向上していると自分では思っている。2050年には100歳以上の老人?が現在の10倍になっているかもしれない。こう考えてくると、いわゆる労働人口として80歳くらいまで考えた社会システムが必要となると考える。2050年にはものづくり(ハード、ソフト、食料生産)、流通、商売、の仕組みも大きく変わり、労働の形態も大きく変わる。極端な言い方をすると、頭だけ働いていれば知的労働は十分に成り立つ。というより、このような労働こそが付加価値が高く、報酬も高くなる(はずである)。このような2050年の社会像を漫然と待つのではなく、今から準備できるところは準備して最善の2050年にしたいというのが上記活動の趣旨である。

本会誌の技術講座で“1DCAEによるものづくり”なるものを連載させていただいている。1DCAEという概念も言い始めたころは、上記の2050年の社会像と同様に色んな意見があった。スパコンを使えば3Dで何でもできる(これは幻想であるが)のに何で1Dなのとか、話は分かるがそんなこと誰ができるのとか、ネガティブな意見が大半であった。技術講座を読んでいただければ分かるが1DCAEは極々当たり前の考え方である。ものづくりに当たっては分からいことは分かるようにしましょうと言っているに過ぎない。この“当たり前”がなかなか理解していただけない。ただ、ずっと言い続けて、それなりに方法論も見えて、事例も出てくるとシンパも増えて来た。正直、1DCAEが今後どのように展開するかわからないが、やはり初心を忘れず、できることはできる、できないことはできないということを正直に伝えていくことが重要と考えている。日本は流れに乗ることは得意であるが、流れを作ることはことものづくりの分野では不得手である。グローバルに考えても、日本はものづくりの新たな潮流を作るべき責務を担っていると考える。1DCAEでこの一部でも実現できればと思う。

現在、表面上は色んなことが便利になり、何でもできるようになっているように見える。しかし、よく考えて見ると種々の制約の中で窮屈に生きているのではないだろうか。起きたい時に起きて、やりたい時に仕事をして、食べたい時に食べて、遊びたい時に遊んで、寝たい時に寝て...と考えるのは私だけだろうか。これはあくまで私の思いであり、皆さんには各自の思いがあるはずである。この色んな思いをその多様性も考慮して形にしていくのが“2050年の社会像を描くことの意義”と考えている。活動の状況については、日本機械学会のホームページ、各種イベントで発信して行くので上記背景も含めて興味を持っていただければと思う。

(2017 JFPA Tea Time by KO)